出羽三山神社

美しい景色の中に大きな赤い鳥居が神秘的な出羽三山神社

出羽三山というのは標高414mの羽黒山、標高1984mの月山、標高1504mの湯殿山の事です。
この出羽三山は出羽国の東西を二分する丘陵主要部を占めている山々です。

その昔、出羽三山は幾度も噴火をおこし近隣の民を苦しめてきましたが、やがて静寂を取戻し山々に緑が茂り生きものたちも戻ってきました。
荒々しく噴火する姿、その後の生命を宿す姿を目の当たりにした人々はそこに神秘の力を感じました。

命の糧を与えてくれるこの場所には、きっと山の神、海の神が御鎮まりになっているに違いない、当時の人たちはそう感じたのです。

第三十二代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子により御開山された

593年、推古天皇元年に奈良の都から日本海の荒波を超え、一人の皇子がこの地にやってきます。
この皇子は第32代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子でした。

イツ八の里、由良の八乙女浦に迎えられた皇子は三本足の霊鳥に導かれ道もない場所をかき分け、羽黒山、阿古谷という場所にたどり着きます。
皇子はここで難行苦行を積まれ羽黒の大神、イツ八の里の国魂伊氏波神(いではのかみ)の御出現を拝したといいます。

これは1400年も前の御事ですが、この時をご開山の年とし、皇子をご開祖と定めそれ以降篤く信仰されました。

やがて御開祖となった蜂子皇子の修業は羽黒派古修験道(はぐろはこしゅげんどう)として結実、現在まで羽黒山伏という形を取り、秋の峰入に代表される厳しい修行道が続いています。

現在では山の内外を問うことなく、全国六十六州のうちの東三十三ヶ国の民衆、また皇室や歴代武将などに篤く信仰され、本邦屈指といわれる霊山、霊場としての地位を築き上げ、今もなお、四季を通じて多くの登拝者が絶えることなく訪れています。

四季の峰と呼ばれた修験道の儀礼

明治5年、修験宗廃止令が出されるまではこの地に、四季の峰として年に4回、入峰修業(にゅうぶしゅぎょう)がおこなわれていました。
入峰というのは山の中という意味があり、修業は胎内の業とされていました。

修験道の儀礼は、死霊が父の精を受け母の胎内に宿り、その命が修業を通じ神の霊威を頂いて成長し、生まれ変わるという死と再生の儀礼といわれていました。

春の峰は稲作の豊作を祈願する予祝行事、新春を寿ぐ儀礼であり、夏の儀礼は道者自身が擬死再生の儀礼を通し自分の生命の若返りを図り祖霊をまつり慰める峰でした。

飽きの儀礼は修験者となるための修行とされ、衆生済度に主軸を置き専門の修験者を養成する業が行われました。
秋峰を重ねると位階昇進の許しを受けるということで、立身出世という意味も持っています。

冬の峰は稲などの五穀に穀霊の発言を待つための物忌みの行といわれます。
こうした行がこの羽黒山で行われてきたのです。

北海道神宮

北海道の開拓、発展の守護神として開かれた北海道神宮

その昔、蝦夷地と呼ばれていた北海道は、日本の国土としてはっきりせず、それを明確にするため、明治2年、北海道という名がつけられました。
この同じ年、明治天皇の命をうけ、東京で北海道鎮座神祭を行うとし、北海道開拓、発展の守護神として大国魂神、大那牟遅神、少彦名神という神々を鎮斎されたといいます。

この三柱の神々の事を、開拓三神(かいたくさんじん)といいます。
神様が宿る依代となる御霊代は東京から函館、札幌に移され明治3年仮社殿が建立されました。

しかし現在の御鎮座の場所ではなく、現在の場所に社殿が建立されたのは明治4年、当時は札幌神社と名付けられています。
その後、開国を決め西洋文明を取り入れ日本の礎を築かれた明治天皇を神様として増祀し、この時に社名が北海道神宮と改称されています。

北海道神宮は三柱から四柱となった

元々は、北海道の開拓、発展を担う神として三柱、大国魂神、大那牟遅神、少彦名神が御鎮座されました。

大国魂神は、北海道の国土の神様で、大那牟遅神は、国土経営、開拓の神様、少彦名神は国土経営、医薬、酒蔵の神様とされています。
仮社殿から現在の北海道神宮の位置に社殿が建てられた際、日本の礎を築かれた明治天皇に御鎮座いただきました。

これによって、北海道神宮の御祭神は三柱から四柱となったのです。
ちなみに・・・神様の数は一人、二人と人間を数えるように数えず、柱で表します。

境内社である開拓神社とは

北海道神宮の境内社として開拓神社があります。
昭和14年、北海道開拓70年の記念事業として物故開拓功労者を祭祀する際、開拓奉斎殿を建立、この年の8月15日に開拓功労慰霊祭がおこなわれました。

全道より奉斎神の申請を求めて36柱を選考し、開拓奉斎殿社殿をもって開拓神社とし鎮座祭を行いました。
昭和15年末社指定を受け、昭和29年には当時の帯広市長の請願を受け、帯広の農聖と呼ばれた依田勉三を合祀、これによって36柱から37柱となっています。

開拓100年、記念行事として昭和43年には社殿の大改修を行い、社務所の新設、昭和59年には鳥居や社号標を新設、御鎮座50年を迎えた昭和63年に拝殿の造営がおこなわれました。

8月15日には毎年子供みこしの渡御が始まり、平成4年に日本最大級の大神輿が奉納荒れており、2年ごとにしない各所を渡御している様子が見られます。

御理恵、恋愛成就、心願成就、受験合格、家内安全等、開拓神社には様々な御神徳があるとされています。

境内にはこのほかに、鉱山殉職者の慰霊を込めて建立された札幌鉱霊神社等があります。
いずれも、北海道開拓に尽力した方々に対し、その功績をたたえまた北海道の末永き発展を祈る場所となっています。

榛名神社

清流と老杉、巨岩が取り巻く自然の中の榛名神社

巖山、一字15万平米という広い敷地内に御鎮座されているのが榛名神社です。
参道は清流がそうようにせせらぎ、空を老杉が多い、巨岩や奇岩などを目にすることもあるまさしく手つかず自然の中に存在しています。

全国の主要な神社名を描いたとされる神名帳には、上野国十二社、群馬郡小社とされています。
927年に完成したという神名帳に記録されている神社は式内社と呼ばれている格式の高い神社です。

榛名神社が歴史の中にその名を現したのはここが最初といわれ、当時、既にこの神名社に名を連ねるほど成長していたということがよくわかります。

また10世紀から12世紀に著された三宝絵詞、上野国交替実録帳などにも、榛名神社の名が出てきます。

初代座主、座主が山を支配していた中世

榛名神社は榛名山邨誌などからその記録をみると、快良が1210年、初代座主となりその後、関白道長の子孫が代々受け継いできたようです。
座主が一山を支配していたということが書物からわかるのです。

1317年、南北朝動乱期、榛名山座主職をめぐる抗争があり頼印が座主となりました。
戦国時代については座主職に誰もつかず、衰微していったようです。

天海僧正により復興が進んだといわれる

戦国時代、かなり衰微したとされる榛名神社ですが、近世、天海僧正により復興されたと書物に書かれており、それ以降、寛永寺の支配を受け寛永寺末、中里里光明寺が学頭、榛名山満行院が別当所と任命されています。

この学頭や別当が赴任する場所が別当所と呼ばれ、この役所は榛名山の信仰の中心ということで、学頭や別当については一山を支配してもいいという権限を与えていたようです。

その下には三役人として、衆徒五ヶ院に吟味役、年寄、この下に脇年寄、行事、山見役、神楽頭取等があったといいます。

国の指定重要文化財となっている榛名神社境内

境内は国の指定重要文化財となっています。
1806年に再建されたもので、左に拝殿、右に本社、それをつなぐ幣殿があります。
隅木入春日造、正面三間、側面二間、幣殿は両下造、正面一間、側面三間、拝殿は入母屋造で正面千鳥破風、両側面と向拝二軒唐風、現造の複合建築です。

本社に置いては御姿岩に接し岩奥にご神体がお祀りされています。
美しい彫刻を見ることができ、目貫の鷲、左右海老虹梁の2龍が有名です。
天井に描かれている花草飛龍の絵は、絵師として有名な根本常南が描いたものです。

三国志に因んだ絵柄が彫られている双龍門

1855年に作られたという双龍門は、4枚の扉にそれぞれ丸く文様化されている龍の彫刻が見られるため、双龍門と呼ばれるようになったようです。

羽目板両面に三国志にちなんだ絵柄の彫り物があり、天井の上り流、下り流がかなりの迫力です。
この天井の龍をえがいたのは高崎藩士矢島氏とされています。

戸隠神社

創建以来2000年あまりという長き歴史を刻む戸隠神社

天岩戸が飛来、現在の姿になったとされる戸隠山を中心に、天岩戸開きの神事の際、高歴があった神様たちがお祀りされているのが戸隠神社といわれています。
霊山と呼ばれる戸隠山の麓、奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社という5つの社からなります。

この戸隠神社は平安時代末、修験道の道場とされ広く都にまでその名が届いていたといわれる霊場でした。

神仏混淆の際、戸隠山顕光寺、戸隠十三谷三千坊と呼ばれていた戸隠神社は非常に栄えたといわれています。
江戸時代に入ると徳川家康によって手厚い籠を受けており、一千石の朱印状を賜り、さらに東叡山寛永寺末寺として農業、水の神の性格を強めました。

山中においては門前町としてしっかり整備され、奥社参道をみると威厳を強く讃える杉並木が見られ現代も広く信仰されていることがよくわかります。

奥社、中社の神様と御神徳とは

奥社には天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)がご祭神として御鎮座されています。
天照大神が天岩戸に御隠れになった際、無双の神力により天岩戸をお開きになった天手力雄命を戸隠山の麓に奉斎したことから歴史が始まっています。

全国にある戸隠神社の御本社であり、開運、心願成就、五穀豊穣、またスポーツ必勝の御神徳があるとされています。
中ほどに進むと藁葺の赤い随神門があり、その先に天然記念物指定を受けている樹齢400年以上という圧倒的な存在感の杉並木をみることができます。

中社には天八意思兼命(あまのやごころおもいかねのみこと)がご祭神としてお祀りされています。
素戔嗚尊の度重なる非行にあきれ天照大神が天岩戸に御隠れされた時、岩戸神楽を創案、岩戸を開くきっかけを作った神様です。

学業成就、商売繁盛、厄除け、家内安全などの御神徳があります。
この社殿天井は平成15年に復元された天才絵師、河鍋暁斎の龍の天井絵が見事です。
境内には樹齢700年を超えるといわれる御神木と、樹齢800年を超える三本杉があり、この神社がいかに歴史深いかを物語っています。

宝光社と九頭龍社・火之御子社の御祭神と御神徳

杉の古木、270あまりの階段を上っていくと神仏習合時代を感じさせる荘厳な社殿をみるいことができます。
これが天表春命(あめのうわはるのみこと)をお祀りしている宝光社です。

開拓学問、技芸裁縫の神様、安産の神様、女性や子供の守り神とされる中社祭神の御子神様です。

九頭龍社は、九頭龍大神がお祀りされており、御鎮座の歳月などは不明とされています。
しかし天手力雄命が奉斎される以前、地主神として奉斎されていた信仰を集めていました。

心願成就の御神徳があると信仰され、古来より水の神様、雨乞いの神様、虫歯の神様、縁結びの神様として尊信されてきたようです。

火之御子社には天鈿女命(あめのうずめのみこと)が御祭神です。
岩戸の前で舞をまった天鈿女命が主祭神で、三柱の神様をお祀りしています。
戸隠山の神々が神仏習合の時期も、このお社は神社として存在し、この神社に仕えていて社人が太々御神楽を古来より伝え現代にいたるといわれています。

舞楽芸能の神様、縁結びの神様、火防の神様として崇敬されており、境内には樹齢500年という結びの杉、日本杉があり縁結びに効果がありそうなイメージです。

伏見稲荷大社

お稲荷さんの総本宮である「伏見稲荷大社」

近所にもよく見かける事のあるお稲荷さん、特に田舎に行くと小さいお稲荷さんの祠などが近くにあり、おあげさんなどをもっていっては拝んだりしたものです。
都市部に行くとあまり見かけなくなったように思いますが、道の隅をみると小さいお稲荷さんの祠があったり、また有名なお稲荷さんがあるという地域も少なくありません。

その私たちにとってとても身近な稲荷さんの総本宮となっているのが伏見稲荷大社です。
日本全国に3万社という数がある稲荷社の中でもここが中心です。

稲荷信仰の原点こそ稲荷山です。
伏見稲荷大社の御祭神、稲荷大神様が稲荷山に御鎮座されたのはとても古く、奈良自体、711年の2月、初午の日だったとされています。
既に御鎮座から1300年以上が経過し、歴史深い総本宮です。

五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、所願成就の神様

奈良時代以降、稲荷大神様が稲荷山に御鎮座されてからというもの、各時代でそれぞれが篤い信仰心を持ち、衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリと崇拝されてきました。

まさしく庶民に近く庶民の信仰の社とされ、伏見稲荷大社は神様と自然と人が共生する社叢・稲荷山としての地の世にもずっと、この使命が受け継がれていくといわれています。

世界からも観光客が訪れる神秘的な千本鳥居

伏見稲荷大社といえば、海外の方々も一度訪れてみたいと人気のスポットがあります。
通常、稲荷といえば赤い鳥居がありますが、伏見稲荷大社にも、鳥居があります。

元来、稲荷の鳥居というのは社殿と同様に稲荷塗といわれ朱で彩色することが習慣です。
朱「あけ」は、赤、明、茜など、全て明るい希望を導くような語感を持っています。

この朱という色は、稲荷大神の生産の力、生命、大地への働きに通ずるものとされ、ここに強い信仰があります。

崇敬される方々が祈りと感謝の気持ちを込めて贈社参道に鳥居を奉納するということが古くから行われており、江戸時代にはすでに伏見稲荷の名所、千本鳥居があり、多くの方が参拝に訪れたといいますから、非常に古い歴史を持っているのです。

朱の鳥居が整然と並ぶその姿は、映像や画像によって参拝された方がインターネット上にアップするなどし、多くの観光客が世界からも訪れるようになっています。

千本鳥居は本殿奥、奥社奉拝所の前にあります。
千本鳥居以外にも、様々な個所、参道に鳥居がありますので、千本鳥居以外の鳥居も神秘性を感じます。

本殿楼門と秀吉の関係

天正17年・1589年に豊臣秀吉によって造成されたとされるのが本殿の前にある堂々たる楼門です。
秀吉の母、大政所様が病気で苦しんでいる時平癒祈願を行い、これが成就するなら一万石奉加するとされた現代に知られる「命乞いの願文」が伝来しています。

これについては造営伝承と伝来文書とあわない?といわれることもありました。
しかし昭和48年、楼門の解体修理を行った際、願文の年次同様に天井17年の墨書が発見され、これまで伝えられてきた命乞いの願文が正しきものだと確認されました。

出雲大社

大国主大神様をお祀りしている出雲大社

出雲大社というといなばのしろうさぎや数々の神話などで知られていますが、神々をお祀りしてきた古い神社が今も残る地であり、その中心となる大国主大神様をお祀りしているのが、出雲大社です。

全国区で名が知られている知名度の高い出雲大社にお祀りされている大国主大神様は、「だいこくさま」として知られる神様で、全国各地にお祀りされていることでも知られています。

大国主大神様という御神名の一つ「所造天下大神」

国づくりの神として知られる大国主大神様は、御神名として所造天下大神ともいわれます。
遠く神代の昔、私たちの遠い祖先の方々と悲しみ、共に喜びながらこの日本の国土を造られたとされています。

大神様は、国を作っている最中に、農耕や漁業、殖産、医薬等、民が生きていくために必要不可欠な様々な知恵を人に授け、多くの救いを下さいました。
美しき尊い慈愛の御心の感謝の気持ちが、御神名の由来となっています。

現在では縁結びの神様として広く知られていますが、この縁とは男女の縁以外にも、生きとし生けるものが豊かに暮らし栄えていくための深い結びつき、様々な縁を指すものです。

目に見えない御縁を結ぶ力を下さっているのが、大国主大神様といわれ、多くの方々からの崇拝を受け今に至っています。

御鎮座はどのように行われたのか

大国主大神様が大業である国づくりにより築いた国は、豊葺原の瑞穂国と呼ばれていました。
あらゆるものが豊かであり、力強く成長する国を築かれたのです。

その後、その国を明るく照らし納める天照大神様に国土奉還し、天照大神様はひどく喜ばれたそうです。
その大国主大神様のお気持ちに感謝し、この後、世の前に見える世界の政治を我が子孫に受け継がせること、そこに結びの御力を頂き幸福に導いて下さいとお願いします。

そして、大国主大神様が暮らす場所として、天日隅宮(あめのひすみのみや)とし、天照大神同様、柱を高く太く、板は厚く広く築き天照大神自身の第二子、天穂日命を仕えさせることなどを約束しました。

これにより大国主大神様は目に見えない世界を司ることになり、高天原の諸神が天照大神の御命令により集まり、宇迦山の麓に壮大な宮が造営されたといいます。

いなばのしろうさぎの話・・子供たちに伝えてほしいお話

出雲の国にその昔「だいこくさま」という神様がいました。
この神様には大勢の兄弟があり、その中においても最も優しい神様を言われていました。

この兄弟たちは印旛の句碑に八上比売(やかみひめ)というたいそう美しい姫がいる事を知り、みんなで会いに行こうと決めますが、だいこくさまは兄弟たちの家来の様に大きな袋を背負わされて、一番後ろからついていくことになります。

因幡の国の「気多の岬」という所を通りかかると身体の皮をはがれたかわいそうな一匹のうさぎをみつけます。
こともあろうに兄弟たちはそのうさぎに海水を浴び、風に当たると治りがいいなどとうそをつきます。

うさぎは喜び海に飛び込み、風が通る丘の上で風を浴びますが、治るなんて大嘘で、海水が傷に染みて痛い上に、風にあおられヒリヒリしひどく痛み苦しみます。
前よりももっとつらく苦しくなったうさぎはさめざめと泣いていると、そこに荷物をもって後ろから歩いてきただいこくさまが通りかかりました。

うさぎに泣いているわけを聞くと、元々隠岐の島に暮していたといううさぎはこの国に一度わたってみたい、泳がないで行く方法はないか?と考えて、そこにワニ(サメ)が来たのでこれはいいぞと彼らをだます事を考えワニに自分の仲間をどっちが多いか比べようと話します。

言われた通りワニは背中をならべたのでそこへ数を数えるふりをしてうさぎは対岸に渡ります。
もう少しという所でだませたことがうれしくなってしまい、だまされたワニをからかうとワニに皮をはがれたというのです。

痛くて泣いていると神様たちが海につかり風で乾かせばいいというので行っていたらいよいよ痛くなり泣いていたのだと話します。
それをきいたさいこくさまはかわいそうに思い、うさぎに真水で身体を洗って蒲の花の上に寝転ぶようにと教えます。
言われたとおりに行ってみると、うさぎの身体から少しずつ毛が生えてすっかり元のかわいいしろうさぎになりました。

かなり遅れてしまいやっと因幡の国にたどり着いた時、八上比売が選んだのはだいこくさまだったというお話です。

優しく正直で辛い事でも頑張れる人は、いつかきっといいことがある、素晴らしいことがあるというお話ですが、現代に生きるお子さんにも、出雲大社のお話とともにこうした神話をお話ししてあげてほしいと思います。

伊勢神宮

お伊勢さんとして親しまれてきた伊勢神宮

この伊勢神宮がある三重県伊勢市に暮らす人たちからは、ずっとお伊勢さん、大神宮さんと呼ばれ親しまれてきた、この地域になくてはならない御護りとなっているのが伊勢神宮です。
この伊勢神宮は正式に神宮といいます。

皇室との縁が深く、皇室の御祖先の神と仰ぎ、古くから私達が国民の大御祖神として崇拝してきた天照大見神を内宮、皇大神宮にお祀りし、衣食住など産業の守護をされておられる豊受大御神が外宮、豊受大神宮にお祀りされています。

これらのほかに、14所の別宮、43の摂社、24所の末社、42所の所管社があります。
全て合わせると125という宮社があり、この全てをさし「神宮」といいます。

伊勢神宮の歴史は非常に深い

瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)から天照大神は常に天皇のおそばにおいてお祀りされてきました。

しかし第10代崇神天皇の御代に御殿を共にすることを恐れと感じた天皇は、大御神を皇居以外にお祀りすることを決意され、皇女豊鋤入姫命により笠縫邑へ神籬をたて大御神をお祀りしたといわれています。

第11代垂仁天皇の皇女倭姫命が豊鋤入姫命と交代、永遠に神事を継続できる場所を探し、大和国を出発、伊賀、近江、美濃などを巡り伊勢国にはいられたといわれます。

倭姫命は当時、天照大神に神風の伊勢の国は遠く常世から波が幾重にもよせては帰る国であり、この国にいようといわれたことで、その大御神の教えに沿い、五十鈴川の川上に宮を建立したとされます。

はるか2000年もの昔、伊勢の地に御鎮座を決めた天照大神の「皇大神宮御鎮座」がこうして行われ伊勢後に建立されたという伊勢神宮の歴史です。
皇太神儀式帳には豊鋤入姫命と倭姫命が国々を巡行したことが記録され、比定地には14カ所が挙げられ記載されています。

20年に一度行われている式年遷宮

平成25年、式年遷宮という行事が伊勢神宮で行われる際、メディアでも大きく取り上げられ、私たちはこの式年遷宮という1300年にわたり行われてきた日本伝統行事のことについて知る機会がありました。

伊勢神宮は内宮、外宮それぞれについて、東と西に全く同じ広さの敷地を持っており、20年に一度、宮地(みやどころ)を改めるため、古例にならい御社殿、御神宝等すべてを新しく整え、大御神に新しい神殿にお遷りいただくのが式年遷宮のお祭りです。

20年に一度造りかえるみずみずしい御社殿において、永遠に変わる事のないお祭りがおこなわれるということに大きな意味、意義があるとされています。
平成25年に行われた式年遷宮は第62回目の式年遷宮でした。

初の式年遷宮は天武天皇の発意により持統天皇がおこなった

初めての式年遷宮は制度の発意を行った天武天皇の次、持統天皇の時代に行われました。
途中中断がありましたが、20年に一度、1300年間にわたり行われてきた大切なお祭りごとです。

神宮のもっとも古い姿については現在の様に大規模な宮ではなく、神籬、祠のような仮説的な斎場によって天照大神をお祀りしたのではないかとされています。

祠が後に宮という大規模な建築となったのは、1300年前、持統天皇による内宮、外宮の遷宮の頃ではないかといわれています。

中断された記録としては室町時代後期、役夫工米によって遷宮費用を徴収するのが難しくなり、120年間中断されたといわれています。

安土桃山時代になり、遷宮上人とされる慶光院清順、周養が勧進したことによって織田信長・豊臣秀吉が遷宮費用を献納、復興となったようです。

厳島神社

1400年もの歴史がある厳島神社

593年、佐伯鞍職によって厳島神社が創建されたと伝えられています。
厳島神社は平清盛が崇敬していたとされ、1168年、平安時代後期、平清盛の援助を受けて佐伯景弘が、現在にみられる海の上に社殿を設け陸から回廊によって結ばれた形式を造営しました。

本殿はみなさんもご承知の通り美しく荘厳で幻想的なイメージがあります。
この本殿以外、37棟という本宮(内宮)、さらに対岸の地御前に19棟の外宮が設けられています。

このすべてが完成するまでには、現在の様に機材等があったわけでもなく長い期間を費やしました。
平家一門の勢いが増していくうちに厳島神社の社運はより高まり、その名は全国に広まりました。

世の中が不安定になった鎌倉から戦国時代、厳島神社も荒廃の時期を迎えましたが、1555年、厳島の合戦により毛利元就が勝利し神社がその支配におき庇護します。
これによってふたたび社運が向上し、さらには天下統一目前の秀吉公も参詣を行い、武運長久を祈り、その年、安国寺に大経堂(千畳閣)の建立を命じたといいます。

私達も近年、自然災害によって厳島神社が被災した姿なども見てきましたが、古くから海水に浸っている床柱は腐食しやすく、幾度となく自然災害、火災に見舞われてきました。
しかし、島内外、全国各地の篤き信仰心によって支えられ、幾度も再建修理がおこなわれ、現在でもその美しき幻想的な社殿その他を目にすることができるのです。

厳島神社の見所は数えきれないくらいに多い

厳島神社はその全体像をみても美しく、世界で他に類をみないと思われる姿です。
見所は数えきれないくらいにあるのですが、まず、重要文化財となっているあの海の大鳥居です。

本社火焼前(ひたさき)から88間、海面にそびえる朱塗りの大鳥居はここに神が宿る事を象徴的に感じさせる美しい鳥居です。
この大きさ、奈良の大仏と同じ16mという高さ、重さは約60tといわれています。
主柱には樹齢500から600年という楠の自然僕が利用されています。

この主柱に利用する巨木をさがすために、20年という長きにわたり探し続けたといわれるほどです。

この主柱の根元については、海底に埋められていると思っている人が多いのですが、松材の杭を打ち地盤を強化し、箱型の島木の中、石を詰めて加重するなどの方法により、「鳥居の重さ」だけで立っているのです。

本殿と平舞台は建立当時を連想させる絢爛豪華さ

本殿は国宝とされており、ここには市杵島姫(いちきしまひめ)・湍津姫(たぎつひめ)・田心姫(たごりひめ)という3女神がお祀りされています。

切妻両流造りは美しく華麗、まさしく女神がおわす場所に相応しく、本殿正面には緑青塗、引違、菱形の格子戸が非常に印象的です。
屋根には神社に必ずあるとも言われる千木、鰹木を持っていません。

桧皮葺の屋根の上に瓦を積む化粧棟という形式を持っている寝殿造りならではの様式が見事です。
今私達が見る事の出来る本殿は元亀2年に毛利元就により改築されたもので、非常に歴史深いものです。

平舞台も国宝です。
寝殿造りの庭とされる部分ですが、平氏一門が千僧供養を行った際、社殿前方に仮廊を設けたと伝えられています。
この仮廊がいつしか常設となっていったのではないかといわれているのが平舞台です。

火焼前(ひたさき)という特徴的な突き出た箇所を持ち、管弦祭の出御、還御についてはここから行うものです。
他の社殿に利用されている束柱は木造、
しかしこの平舞台の束柱は赤間石です。

これは毛利元就によって寄進されたものとされ、火焼前分を足すと、実に239本という数に登っています。

このほかにも、国宝高舞台、重要文化財の能舞台、同じく重要文化財の反橋、さらに美しく神秘的な廻廊・・・・と厳島神社の見所は非常に多い事でも知られています。