諏訪大社

日本最古の神社の一つとされる諏訪大社

諏訪大社については日本の最古の神社の一つとされており、古くから御鎮座されているため、御鎮座の年代、起源など詳細がわかっていません。
それだけ歴史古く世代を遡る事が出来ないほど・・ということでしょう。

延喜式神名帳によると南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と記されており、信濃国四中八座第一とあり、この延喜式神名帳がかかれた時にはすでに信濃国一之宮として信仰されていたということがわかります。

諏訪大社となったのは終戦を迎え昭和23年のことで、以前は明治4年に国幣中社、29年に官幣中社、対象5年に官幣大社へ昇格、それから諏訪大社と改称したとされています。

諏訪大社の信仰とはどういう信仰なのか

諏訪大社は全国各地にあり、その数は1万を超えるといわれています。
敬われ崇敬されてきた神社でありまた最も身近で親しまれてきた神社といえます。
御神徳は枚挙にいとまがないとされており、古くから風、水を司る竜神信仰や、風、水と直接関係の深い農業の守護として知られてきました。

水の信仰ということで海についての守護とされており、みなさんも目にすることがあるかと思いますが、港の近くに行くと必ずと言っていいほどお諏訪様がお祀りされています。

神功皇后が三韓出兵の際、また坂上田村麻呂が東夷平定の際にも神助があったと伝えられており、東関第一の軍さ神、武家守護神として崇敬されてきたということも伝えられています。

精進潔斎を形だけ行うものよりも、肉を食べても真心こめて祈るものを救おうという諏訪大明神御神託も伝えられていますし、浄瑠璃、歌舞伎などの本朝二十四孝が世に広まっていくにつれて、日本の屋根信州諏訪の地へ参拝したいという民も多くなり、諏訪大明神の御神徳を頂きたいと崇敬する人々が多いということもよく理解できます。

本殿がない諏訪大社・・どうしてないのか?

通常、こうしたところでは本殿があるはずなのに、諏訪大社には本殿がありません。
歴史が古くその御鎮座の正確な年数などもはっきりしないくらい古来より信仰されてきたところです。
しかし本殿がないのは古くからの姿を残しているからという理由があります。

実は古代の神社というのは社殿がなかったとも伝えられており、諏訪大社は秋宮に一位の木、春宮に杉の木を御神木とし、上社は御山をご神体として拝しています。

古き時代から深く信仰されてきた諏訪大社だからこそ、本来の「社殿がない」という姿を守り、古から続く信仰を今に伝えていると感じられます。

風、水の守護神、五穀豊穣を祈る神様、さらには武勇の神様として広く信仰されてきた諏訪大社は、現在においても生命の根源、源を守護する御神徳が崇敬され、全国各地より多くの参拝者を迎えています。

鶴岡八幡宮

鶴岡八幡宮の御由緒とご祭神について

1063年、源頼義が奥州を平定、その後鎌倉にわたり源氏の氏神として出陣の際、御加護をご祈願した京都石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたことが鶴岡八幡宮の始まりと伝えられています。

源氏最高の旗揚げに尽力した源頼朝公は、1180年、鎌倉に入りただちに御神意を伺い、由比ヶ浜辺の八幡宮を現在の地に遷し、1191年、鎌倉幕府宗社として相応しい姿にすべく、上下両宮という現在の御姿に整え、この鶴岡八幡宮を鎌倉の地の町づくりの主軸としたといわれます。

地域の民が篤く崇敬するように、頼朝公は相撲、舞楽などの神事、行事などを行いこれによって関東の総鎮守として篤い信仰を得るようになったといわれています。

これ以降、武家の精神のよりどころ、国家鎮護の神として全国に知られるようになり、この思考によって鎌倉は質実剛健の気風が、武士道、日本人の精神の基調となったとされています。

現在の御本殿は1828年、江戸幕府11代将軍徳川家斉の造営によるもので、代表的な江戸建築として美しい姿を見ることができます。
若宮と共に御本殿は国の重要文化財指定を受けている大変貴重な建築物です。

深い緑の中に朱色の鮮やかな社殿が浮かび上がるような様は神々しく、まさしくここに神が御鎮座されていることを感じます。

源頼朝公、実朝公をお祀りしている白旗神社などの境内社、さらに静御前の舞殿など、800年という長い歴史を持った八幡宮であることが実感されます。

施設はいずれも美しく歴史を感じる場所ばかり

断葛は北条政子の安産を祈願し作られたという参道で、若宮大路の中心とされます。
この辺りは春にさくら、つつじが満開となり花のトンネルとなる事で、多くの参詣客、また観光客の皆さんが春を楽しみに来られる場所です。

源平池の周囲にも、春には桜、夏には紅白の蓮の花が美しく咲き乱れ、参詣客の溜息を誘います。
源平池の東の島にある旗上弁財天社は、八幡宮創建800年、文政年間の古図をもとに復元されたものです。

源頼朝公の旗揚げに因み、源氏の二引きの旗に願掛けを行う参拝者も多く、ここで勝負運をあげていこうとされる方も多いと聞きます。

鶴岡八幡宮は文化財の宝庫

鶴岡八幡宮には国宝、重要文化財、県指定文化財などが多数残されています。
特に鶴岡八幡宮には古くから伝わる刀剣類が60口もあります。
そのうちのいくつかが国宝指定されており、沃懸地杏葉螺鈿太刀は衛符の太刀とされ、鎌倉初期、武人が佩用していた太刀を今に伝えています。

このほかにも明治天皇が御奉納された重要文化財の金象嵌銘国吉太刀、同じく重要文化財の北条氏北条氏綱奉納の太刀(3口)など、鎌倉、室町時代にどのような太刀が利用されてきたのか、その様式を残している貴重な物ばかりです。

香取神宮

出雲の国護りの神話に出てくる神様・・香取神宮の経津主大神

香取神宮は千葉県香取市にある、御祭神に経津主大神をお祀りされている神宮です。
経津主大神は出雲の国護りの神話に出てくる神様です。

神々の国を治めていた天照大神が葦原柱号、現在の日本を自分の息子が納めるべきとします。
しかし葦原中国は荒ぶる神々が争いをお越し乱れきっていたので、はお万の神様たちに相談すると、天穂日命こそ優れた神と出雲国、大国主神に遣わします。

大国主神の元に遣わされた天穂日命は大国主神に命ぜられ家臣となってしまいます。
天稚彦が遣わされても忠誠心がなく大国主神の娘、下照姫を妻として自ら国を乗っ取ろうと画策し天照の元に帰りません。

三度八百万の神に相談してみると、経津主神がふさわしいとしそこに武甕槌大神も名乗り出たことから、二神を出雲に派遣し、国護りに成功したといわれている神話です。
国を守り日本という国を平定したということで、国護りの神様といわれているのです。

香取神宮の御神徳とは?

国家鎮護の神様として古来より皇室からも御崇敬されてきたということで神宮の御下田興業株式会社をもって奉祀されています。
中世以降は下総国の一宮とされ、明治以後、社格制の際には、官幣大社に烈士、昭和17年勅裁社とされ現代に至ります。

香取大神をご祭神とする神社は国内各地におよび、その中には奈良の春日大社、宮城の鹽竈神社等もあります。

家内安全、農業、商工業等産業指導の神様、海上守護、心願成就、縁結び、安産の神様として近隣の方々はもとより、全国各地より崇敬されています。

国護り、国を平定したという神様がおられますので、平和、外交の神様として、勝運を上げる、交通安全、また災難除けの神様の御神徳があるとされています。

12年に1度だけ、午年に行われる式年神幸祭

神幸祭は例年4月に行われている祭ですが、12年に1度、宇志土地に盛大に行われているのが、式年神幸祭です。

元々、式年遷宮大祭という名で20年に1度行われてきた祭でしたが、戦国時代以降に式年遷宮を行うことがなくなり、これに替わる祭として12年に1度、式年神幸祭がおこなわれるようになったとされています。

15日に氏子数千余名の奉仕員が行列を組みお神輿を中心として神宮を出発、津宮に進み、利根川沿い、鳥居河岸から御座船に移って船上祭、鹿島神宮によって御迎祭が行われたのち、利根川を遡り、佐原河口に御上陸、御旅所において御駐泊されます。

翌日も同様に行列を組んで市内を巡行、陸路で神宮還御という流れで行われています。
歴史ある香取神宮で行われる12年に1度の式年遷宮は大変盛大に行われ、古式ゆかしき行事等見ることができるので、多くの方々が訪れ見学されるということです。

鹿島神宮

日本建国、武道の神様をご祭神とする鹿島神宮

鹿島神宮の御祭神であるタケミカヅチノオオカミ「武甕槌大神」は日本建国に挺身された神様です。
神代の昔に、天照大神の命を受け、香取神宮の御祭神とされるフツヌシノオオカミ「経津主大神」と共に出雲の国に天から降りました。

大国主命と話し合い、国護りの交渉を行い成就され日本の建国に身を尽くしてくださいました。

鹿島院宮の創建は初代神武天皇の御代です。
神武天皇は東征半ば、思わぬ窮地に立たされますが、この時タケミカヅチノオオカミの韴霊剣の神威により救われます。

この神恩に深く感謝された天王はご即位される際、皇紀元年に大神をこの地に勅裁されたといわれます。
東国遠征の拠点として多くの重要な祭祀を行い、奈良時代、平安時代には国の守護神として篤く信仰されたといいます。

20年に1度行われる造営遷宮も覆なわれ、源頼朝、徳川家康などの武将たちからも尊崇され、武神として仰がれるようになったと伝えられています。
現在見られる社殿については徳川家二代将軍の秀忠公によって奉納され、奥宮は徳川家康公、楼門は水戸初代藩主徳川頼房により奉納されています。

12年に一度行われる御船祭の御由緒とは

鹿島の神様と船との関係は創建時代にさかのぼり、東路となる鹿島は外海の太平洋西の内海の中にあり、船団の航行によって栄えた古代東国文化の要塞といわれていました。
東海を扼する鹿島に鎮座し関東開拓鎮撫に当る鹿島の大神を奉する当時の人々の篤き信仰、足跡を伝える祭です。

1700年も昔、応神天皇の御代より伝わってきた鹿島神宮最大の祭とされています。
なぜ、12年に1度、牛年だけに行われるのかというと、十二支が一巡し、牛の方角が南であること、時刻においては正午と「陽性」が最も盛んとされるためです。

邪気不景気を払うという一陽来復という願いが込められている、縁起のいい祭といえるのではないかと思います。

また武道の神様ということで、毎年武道演武大会が奉納されていますし、日本古武道交流演武大会などが開かれています。
武道にまつわる催しなど、鹿島神宮だから見る事の出来る年中行事も多く行われています。

多くの宝物も歴史ある鹿島神宮ならでは

鹿島神宮は多くの武将たちが信仰しており、武道、武家とのかかわりが深いことで知られています。

藤原摂関家、徳川将軍家等、武家の信仰が特に篤く、武家、武将たちから奉納された数々の宝物類が所蔵されています。
国宝、重要文化財、茨城県指定文化財等も多数あり、宝物の宝庫としても知られているのが鹿島神宮なのです。

特に国宝である日本最古最大といわれる直刀、「金銅黒漆平文拵・附刀唐櫃」、重要文化財の松竹蒔絵鞍、太刀「銘景安」、茨城県指定文化財の古瀬戸狛犬、銅印、木造狛犬、黒漆螺鈿蒔絵台など、ここにしか見られない宝物はまさしく日本の宝です。

また鹿島神宮の神社縁にある百馬図は雪村作、鹿島洋朝瞰図は横山大観筆等もあります。
直刀は実物大のレプリカ展示があるので、実際に手に触れて重さ、大きさを感じることができます。

出羽三山神社

美しい景色の中に大きな赤い鳥居が神秘的な出羽三山神社

出羽三山というのは標高414mの羽黒山、標高1984mの月山、標高1504mの湯殿山の事です。
この出羽三山は出羽国の東西を二分する丘陵主要部を占めている山々です。

その昔、出羽三山は幾度も噴火をおこし近隣の民を苦しめてきましたが、やがて静寂を取戻し山々に緑が茂り生きものたちも戻ってきました。
荒々しく噴火する姿、その後の生命を宿す姿を目の当たりにした人々はそこに神秘の力を感じました。

命の糧を与えてくれるこの場所には、きっと山の神、海の神が御鎮まりになっているに違いない、当時の人たちはそう感じたのです。

第三十二代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子により御開山された

593年、推古天皇元年に奈良の都から日本海の荒波を超え、一人の皇子がこの地にやってきます。
この皇子は第32代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子でした。

イツ八の里、由良の八乙女浦に迎えられた皇子は三本足の霊鳥に導かれ道もない場所をかき分け、羽黒山、阿古谷という場所にたどり着きます。
皇子はここで難行苦行を積まれ羽黒の大神、イツ八の里の国魂伊氏波神(いではのかみ)の御出現を拝したといいます。

これは1400年も前の御事ですが、この時をご開山の年とし、皇子をご開祖と定めそれ以降篤く信仰されました。

やがて御開祖となった蜂子皇子の修業は羽黒派古修験道(はぐろはこしゅげんどう)として結実、現在まで羽黒山伏という形を取り、秋の峰入に代表される厳しい修行道が続いています。

現在では山の内外を問うことなく、全国六十六州のうちの東三十三ヶ国の民衆、また皇室や歴代武将などに篤く信仰され、本邦屈指といわれる霊山、霊場としての地位を築き上げ、今もなお、四季を通じて多くの登拝者が絶えることなく訪れています。

四季の峰と呼ばれた修験道の儀礼

明治5年、修験宗廃止令が出されるまではこの地に、四季の峰として年に4回、入峰修業(にゅうぶしゅぎょう)がおこなわれていました。
入峰というのは山の中という意味があり、修業は胎内の業とされていました。

修験道の儀礼は、死霊が父の精を受け母の胎内に宿り、その命が修業を通じ神の霊威を頂いて成長し、生まれ変わるという死と再生の儀礼といわれていました。

春の峰は稲作の豊作を祈願する予祝行事、新春を寿ぐ儀礼であり、夏の儀礼は道者自身が擬死再生の儀礼を通し自分の生命の若返りを図り祖霊をまつり慰める峰でした。

飽きの儀礼は修験者となるための修行とされ、衆生済度に主軸を置き専門の修験者を養成する業が行われました。
秋峰を重ねると位階昇進の許しを受けるということで、立身出世という意味も持っています。

冬の峰は稲などの五穀に穀霊の発言を待つための物忌みの行といわれます。
こうした行がこの羽黒山で行われてきたのです。

北海道神宮

北海道の開拓、発展の守護神として開かれた北海道神宮

その昔、蝦夷地と呼ばれていた北海道は、日本の国土としてはっきりせず、それを明確にするため、明治2年、北海道という名がつけられました。
この同じ年、明治天皇の命をうけ、東京で北海道鎮座神祭を行うとし、北海道開拓、発展の守護神として大国魂神、大那牟遅神、少彦名神という神々を鎮斎されたといいます。

この三柱の神々の事を、開拓三神(かいたくさんじん)といいます。
神様が宿る依代となる御霊代は東京から函館、札幌に移され明治3年仮社殿が建立されました。

しかし現在の御鎮座の場所ではなく、現在の場所に社殿が建立されたのは明治4年、当時は札幌神社と名付けられています。
その後、開国を決め西洋文明を取り入れ日本の礎を築かれた明治天皇を神様として増祀し、この時に社名が北海道神宮と改称されています。

北海道神宮は三柱から四柱となった

元々は、北海道の開拓、発展を担う神として三柱、大国魂神、大那牟遅神、少彦名神が御鎮座されました。

大国魂神は、北海道の国土の神様で、大那牟遅神は、国土経営、開拓の神様、少彦名神は国土経営、医薬、酒蔵の神様とされています。
仮社殿から現在の北海道神宮の位置に社殿が建てられた際、日本の礎を築かれた明治天皇に御鎮座いただきました。

これによって、北海道神宮の御祭神は三柱から四柱となったのです。
ちなみに・・・神様の数は一人、二人と人間を数えるように数えず、柱で表します。

境内社である開拓神社とは

北海道神宮の境内社として開拓神社があります。
昭和14年、北海道開拓70年の記念事業として物故開拓功労者を祭祀する際、開拓奉斎殿を建立、この年の8月15日に開拓功労慰霊祭がおこなわれました。

全道より奉斎神の申請を求めて36柱を選考し、開拓奉斎殿社殿をもって開拓神社とし鎮座祭を行いました。
昭和15年末社指定を受け、昭和29年には当時の帯広市長の請願を受け、帯広の農聖と呼ばれた依田勉三を合祀、これによって36柱から37柱となっています。

開拓100年、記念行事として昭和43年には社殿の大改修を行い、社務所の新設、昭和59年には鳥居や社号標を新設、御鎮座50年を迎えた昭和63年に拝殿の造営がおこなわれました。

8月15日には毎年子供みこしの渡御が始まり、平成4年に日本最大級の大神輿が奉納荒れており、2年ごとにしない各所を渡御している様子が見られます。

御理恵、恋愛成就、心願成就、受験合格、家内安全等、開拓神社には様々な御神徳があるとされています。

境内にはこのほかに、鉱山殉職者の慰霊を込めて建立された札幌鉱霊神社等があります。
いずれも、北海道開拓に尽力した方々に対し、その功績をたたえまた北海道の末永き発展を祈る場所となっています。

榛名神社

清流と老杉、巨岩が取り巻く自然の中の榛名神社

巖山、一字15万平米という広い敷地内に御鎮座されているのが榛名神社です。
参道は清流がそうようにせせらぎ、空を老杉が多い、巨岩や奇岩などを目にすることもあるまさしく手つかず自然の中に存在しています。

全国の主要な神社名を描いたとされる神名帳には、上野国十二社、群馬郡小社とされています。
927年に完成したという神名帳に記録されている神社は式内社と呼ばれている格式の高い神社です。

榛名神社が歴史の中にその名を現したのはここが最初といわれ、当時、既にこの神名社に名を連ねるほど成長していたということがよくわかります。

また10世紀から12世紀に著された三宝絵詞、上野国交替実録帳などにも、榛名神社の名が出てきます。

初代座主、座主が山を支配していた中世

榛名神社は榛名山邨誌などからその記録をみると、快良が1210年、初代座主となりその後、関白道長の子孫が代々受け継いできたようです。
座主が一山を支配していたということが書物からわかるのです。

1317年、南北朝動乱期、榛名山座主職をめぐる抗争があり頼印が座主となりました。
戦国時代については座主職に誰もつかず、衰微していったようです。

天海僧正により復興が進んだといわれる

戦国時代、かなり衰微したとされる榛名神社ですが、近世、天海僧正により復興されたと書物に書かれており、それ以降、寛永寺の支配を受け寛永寺末、中里里光明寺が学頭、榛名山満行院が別当所と任命されています。

この学頭や別当が赴任する場所が別当所と呼ばれ、この役所は榛名山の信仰の中心ということで、学頭や別当については一山を支配してもいいという権限を与えていたようです。

その下には三役人として、衆徒五ヶ院に吟味役、年寄、この下に脇年寄、行事、山見役、神楽頭取等があったといいます。

国の指定重要文化財となっている榛名神社境内

境内は国の指定重要文化財となっています。
1806年に再建されたもので、左に拝殿、右に本社、それをつなぐ幣殿があります。
隅木入春日造、正面三間、側面二間、幣殿は両下造、正面一間、側面三間、拝殿は入母屋造で正面千鳥破風、両側面と向拝二軒唐風、現造の複合建築です。

本社に置いては御姿岩に接し岩奥にご神体がお祀りされています。
美しい彫刻を見ることができ、目貫の鷲、左右海老虹梁の2龍が有名です。
天井に描かれている花草飛龍の絵は、絵師として有名な根本常南が描いたものです。

三国志に因んだ絵柄が彫られている双龍門

1855年に作られたという双龍門は、4枚の扉にそれぞれ丸く文様化されている龍の彫刻が見られるため、双龍門と呼ばれるようになったようです。

羽目板両面に三国志にちなんだ絵柄の彫り物があり、天井の上り流、下り流がかなりの迫力です。
この天井の龍をえがいたのは高崎藩士矢島氏とされています。

戸隠神社

創建以来2000年あまりという長き歴史を刻む戸隠神社

天岩戸が飛来、現在の姿になったとされる戸隠山を中心に、天岩戸開きの神事の際、高歴があった神様たちがお祀りされているのが戸隠神社といわれています。
霊山と呼ばれる戸隠山の麓、奥社、中社、宝光社、九頭龍社、火之御子社という5つの社からなります。

この戸隠神社は平安時代末、修験道の道場とされ広く都にまでその名が届いていたといわれる霊場でした。

神仏混淆の際、戸隠山顕光寺、戸隠十三谷三千坊と呼ばれていた戸隠神社は非常に栄えたといわれています。
江戸時代に入ると徳川家康によって手厚い籠を受けており、一千石の朱印状を賜り、さらに東叡山寛永寺末寺として農業、水の神の性格を強めました。

山中においては門前町としてしっかり整備され、奥社参道をみると威厳を強く讃える杉並木が見られ現代も広く信仰されていることがよくわかります。

奥社、中社の神様と御神徳とは

奥社には天手力雄命(あめのたぢからおのみこと)がご祭神として御鎮座されています。
天照大神が天岩戸に御隠れになった際、無双の神力により天岩戸をお開きになった天手力雄命を戸隠山の麓に奉斎したことから歴史が始まっています。

全国にある戸隠神社の御本社であり、開運、心願成就、五穀豊穣、またスポーツ必勝の御神徳があるとされています。
中ほどに進むと藁葺の赤い随神門があり、その先に天然記念物指定を受けている樹齢400年以上という圧倒的な存在感の杉並木をみることができます。

中社には天八意思兼命(あまのやごころおもいかねのみこと)がご祭神としてお祀りされています。
素戔嗚尊の度重なる非行にあきれ天照大神が天岩戸に御隠れされた時、岩戸神楽を創案、岩戸を開くきっかけを作った神様です。

学業成就、商売繁盛、厄除け、家内安全などの御神徳があります。
この社殿天井は平成15年に復元された天才絵師、河鍋暁斎の龍の天井絵が見事です。
境内には樹齢700年を超えるといわれる御神木と、樹齢800年を超える三本杉があり、この神社がいかに歴史深いかを物語っています。

宝光社と九頭龍社・火之御子社の御祭神と御神徳

杉の古木、270あまりの階段を上っていくと神仏習合時代を感じさせる荘厳な社殿をみるいことができます。
これが天表春命(あめのうわはるのみこと)をお祀りしている宝光社です。

開拓学問、技芸裁縫の神様、安産の神様、女性や子供の守り神とされる中社祭神の御子神様です。

九頭龍社は、九頭龍大神がお祀りされており、御鎮座の歳月などは不明とされています。
しかし天手力雄命が奉斎される以前、地主神として奉斎されていた信仰を集めていました。

心願成就の御神徳があると信仰され、古来より水の神様、雨乞いの神様、虫歯の神様、縁結びの神様として尊信されてきたようです。

火之御子社には天鈿女命(あめのうずめのみこと)が御祭神です。
岩戸の前で舞をまった天鈿女命が主祭神で、三柱の神様をお祀りしています。
戸隠山の神々が神仏習合の時期も、このお社は神社として存在し、この神社に仕えていて社人が太々御神楽を古来より伝え現代にいたるといわれています。

舞楽芸能の神様、縁結びの神様、火防の神様として崇敬されており、境内には樹齢500年という結びの杉、日本杉があり縁結びに効果がありそうなイメージです。

伏見稲荷大社

お稲荷さんの総本宮である「伏見稲荷大社」

近所にもよく見かける事のあるお稲荷さん、特に田舎に行くと小さいお稲荷さんの祠などが近くにあり、おあげさんなどをもっていっては拝んだりしたものです。
都市部に行くとあまり見かけなくなったように思いますが、道の隅をみると小さいお稲荷さんの祠があったり、また有名なお稲荷さんがあるという地域も少なくありません。

その私たちにとってとても身近な稲荷さんの総本宮となっているのが伏見稲荷大社です。
日本全国に3万社という数がある稲荷社の中でもここが中心です。

稲荷信仰の原点こそ稲荷山です。
伏見稲荷大社の御祭神、稲荷大神様が稲荷山に御鎮座されたのはとても古く、奈良自体、711年の2月、初午の日だったとされています。
既に御鎮座から1300年以上が経過し、歴史深い総本宮です。

五穀豊穣、商売繁盛、家内安全、所願成就の神様

奈良時代以降、稲荷大神様が稲荷山に御鎮座されてからというもの、各時代でそれぞれが篤い信仰心を持ち、衣食住ノ太祖ニシテ萬民豊楽ノ神霊ナリと崇拝されてきました。

まさしく庶民に近く庶民の信仰の社とされ、伏見稲荷大社は神様と自然と人が共生する社叢・稲荷山としての地の世にもずっと、この使命が受け継がれていくといわれています。

世界からも観光客が訪れる神秘的な千本鳥居

伏見稲荷大社といえば、海外の方々も一度訪れてみたいと人気のスポットがあります。
通常、稲荷といえば赤い鳥居がありますが、伏見稲荷大社にも、鳥居があります。

元来、稲荷の鳥居というのは社殿と同様に稲荷塗といわれ朱で彩色することが習慣です。
朱「あけ」は、赤、明、茜など、全て明るい希望を導くような語感を持っています。

この朱という色は、稲荷大神の生産の力、生命、大地への働きに通ずるものとされ、ここに強い信仰があります。

崇敬される方々が祈りと感謝の気持ちを込めて贈社参道に鳥居を奉納するということが古くから行われており、江戸時代にはすでに伏見稲荷の名所、千本鳥居があり、多くの方が参拝に訪れたといいますから、非常に古い歴史を持っているのです。

朱の鳥居が整然と並ぶその姿は、映像や画像によって参拝された方がインターネット上にアップするなどし、多くの観光客が世界からも訪れるようになっています。

千本鳥居は本殿奥、奥社奉拝所の前にあります。
千本鳥居以外にも、様々な個所、参道に鳥居がありますので、千本鳥居以外の鳥居も神秘性を感じます。

本殿楼門と秀吉の関係

天正17年・1589年に豊臣秀吉によって造成されたとされるのが本殿の前にある堂々たる楼門です。
秀吉の母、大政所様が病気で苦しんでいる時平癒祈願を行い、これが成就するなら一万石奉加するとされた現代に知られる「命乞いの願文」が伝来しています。

これについては造営伝承と伝来文書とあわない?といわれることもありました。
しかし昭和48年、楼門の解体修理を行った際、願文の年次同様に天井17年の墨書が発見され、これまで伝えられてきた命乞いの願文が正しきものだと確認されました。

出雲大社

大国主大神様をお祀りしている出雲大社

出雲大社というといなばのしろうさぎや数々の神話などで知られていますが、神々をお祀りしてきた古い神社が今も残る地であり、その中心となる大国主大神様をお祀りしているのが、出雲大社です。

全国区で名が知られている知名度の高い出雲大社にお祀りされている大国主大神様は、「だいこくさま」として知られる神様で、全国各地にお祀りされていることでも知られています。

大国主大神様という御神名の一つ「所造天下大神」

国づくりの神として知られる大国主大神様は、御神名として所造天下大神ともいわれます。
遠く神代の昔、私たちの遠い祖先の方々と悲しみ、共に喜びながらこの日本の国土を造られたとされています。

大神様は、国を作っている最中に、農耕や漁業、殖産、医薬等、民が生きていくために必要不可欠な様々な知恵を人に授け、多くの救いを下さいました。
美しき尊い慈愛の御心の感謝の気持ちが、御神名の由来となっています。

現在では縁結びの神様として広く知られていますが、この縁とは男女の縁以外にも、生きとし生けるものが豊かに暮らし栄えていくための深い結びつき、様々な縁を指すものです。

目に見えない御縁を結ぶ力を下さっているのが、大国主大神様といわれ、多くの方々からの崇拝を受け今に至っています。

御鎮座はどのように行われたのか

大国主大神様が大業である国づくりにより築いた国は、豊葺原の瑞穂国と呼ばれていました。
あらゆるものが豊かであり、力強く成長する国を築かれたのです。

その後、その国を明るく照らし納める天照大神様に国土奉還し、天照大神様はひどく喜ばれたそうです。
その大国主大神様のお気持ちに感謝し、この後、世の前に見える世界の政治を我が子孫に受け継がせること、そこに結びの御力を頂き幸福に導いて下さいとお願いします。

そして、大国主大神様が暮らす場所として、天日隅宮(あめのひすみのみや)とし、天照大神同様、柱を高く太く、板は厚く広く築き天照大神自身の第二子、天穂日命を仕えさせることなどを約束しました。

これにより大国主大神様は目に見えない世界を司ることになり、高天原の諸神が天照大神の御命令により集まり、宇迦山の麓に壮大な宮が造営されたといいます。

いなばのしろうさぎの話・・子供たちに伝えてほしいお話

出雲の国にその昔「だいこくさま」という神様がいました。
この神様には大勢の兄弟があり、その中においても最も優しい神様を言われていました。

この兄弟たちは印旛の句碑に八上比売(やかみひめ)というたいそう美しい姫がいる事を知り、みんなで会いに行こうと決めますが、だいこくさまは兄弟たちの家来の様に大きな袋を背負わされて、一番後ろからついていくことになります。

因幡の国の「気多の岬」という所を通りかかると身体の皮をはがれたかわいそうな一匹のうさぎをみつけます。
こともあろうに兄弟たちはそのうさぎに海水を浴び、風に当たると治りがいいなどとうそをつきます。

うさぎは喜び海に飛び込み、風が通る丘の上で風を浴びますが、治るなんて大嘘で、海水が傷に染みて痛い上に、風にあおられヒリヒリしひどく痛み苦しみます。
前よりももっとつらく苦しくなったうさぎはさめざめと泣いていると、そこに荷物をもって後ろから歩いてきただいこくさまが通りかかりました。

うさぎに泣いているわけを聞くと、元々隠岐の島に暮していたといううさぎはこの国に一度わたってみたい、泳がないで行く方法はないか?と考えて、そこにワニ(サメ)が来たのでこれはいいぞと彼らをだます事を考えワニに自分の仲間をどっちが多いか比べようと話します。

言われた通りワニは背中をならべたのでそこへ数を数えるふりをしてうさぎは対岸に渡ります。
もう少しという所でだませたことがうれしくなってしまい、だまされたワニをからかうとワニに皮をはがれたというのです。

痛くて泣いていると神様たちが海につかり風で乾かせばいいというので行っていたらいよいよ痛くなり泣いていたのだと話します。
それをきいたさいこくさまはかわいそうに思い、うさぎに真水で身体を洗って蒲の花の上に寝転ぶようにと教えます。
言われたとおりに行ってみると、うさぎの身体から少しずつ毛が生えてすっかり元のかわいいしろうさぎになりました。

かなり遅れてしまいやっと因幡の国にたどり着いた時、八上比売が選んだのはだいこくさまだったというお話です。

優しく正直で辛い事でも頑張れる人は、いつかきっといいことがある、素晴らしいことがあるというお話ですが、現代に生きるお子さんにも、出雲大社のお話とともにこうした神話をお話ししてあげてほしいと思います。